東京公演抜粋

Performance in Tokyo (excerpts)

大きな画面でご覧になるには、動画をスタートし、画面右下のYoutubeボタンをクリックしてください。 Please click the YouTube bottom for a larger screen.

[db-ll-bass]を終えて                               河崎純

トルコの振付家アイディン・テキャルさんとの共同作業。一昨年の秋から始まり、昨年の秋イスタンブール公演を経て、この2月にようやく日本で公演することが出来ました。

 

一昨年の9月から昨年10月のイスタン ブールの初演まではとにかく、アイディンさんとの身体、骨格や身体ムーブメントのフォルムからつくられる音楽について試行錯誤を続けました。感覚や感情から人間が思考し、表わし、形にしてきた音楽という行為に対してのメタフィジカルな視点です。つまり、なぜ人はそういう表現やフォルムにしたり、あるいは、してこなかったりしたのか、という視点を得ることで、さて、なにができるのだろうという白紙の状態から、具体的な作業に入ってゆくことができました。アイディンさんが体、骨格から考える身体の動きから、まずは音を出します。それらは、音楽と呼びうるものなのか、演奏といえるものなのか、また、「音楽」である必要はあるのか…と。「寝る」、「寝ながら動く」、「楽器と遠くはなれる」、「楽器と密着する」、「動き続ける」、「静止する、」「楽器をいろいろなやり方でかかえる」など。

 

音楽が「音楽」になりえなかった地点からの想像と創造。そのことは私自身が「即興」ということを考えてきたことと共通するところでもありました。つまり作曲や、演奏フォームや奏法、それらの行為や方法があるフォルムに定着する前の状態にさまざまな可能性を求める、ということです。たとえば、通常、演奏するにあたって良いフォームというものがありますが、それに対して特殊奏法というものがあります。ピアノの弦になにかはさんだり、弦楽器を弓の毛以外の部分や、弓以外のものを用いて弾いたり、エレクトロニクスを介在させたり…。それらは、まさに人間が表わしうる表現の可能性の拡張を求めたものです。しかしむしろ拡張というより、なぜ、どうやってそのような「普通のフォーム」ができあがったのか、でき上がってしまったのか、ということを遡ること、いわばひとりの人間が、社会が音楽的営為のなかに何を求め、何を求めなかったのか、ということへの関心が、普段の私自身が音楽をする大きな動機です。今回のアイディンさんとの作業でいえば、たとえば、なぜ人は寝ながら音を奏でないのか、奏でたらどうなのか、という具合に。また、あるいは、「奏でない」というについて。

 

音を奏でない、あるいは、奏でられないということについて、これほどリアルに向き合ったことはこれまでなかったかもしれません。音楽という行為において、方法や効果、観念や哲学として、無音や沈黙やノイズを、あたりまえのように「演奏」してきました。しかし今回のように、常にふつうには演奏できない身体的体位で演奏するという状況を作るなかで、「奏でない」ことと「奏でられない」ことの違いは何だろうか、この問いに対する逡巡はこの作業中常にありました。また、私がこれまで演奏してきたノイズや無音や沈黙の空虚さが、もっとリアルなものとして表わしうるのかもしれない、という期待はこの作業にチャレンジし続ける大きな動機になりました。

 

実際に、作業の中で一番私を悩ませたの は、多くの弦楽器の演奏における右手と左手の関係です。左手で指板の上の弦を押さえる、という動きは、骨格のシンメトリー性に依拠した身体表現のダイナミクスに対し制限を加えてしまうのです。これを制限ととらえるか、可能性としてとらえるか、そのはざまで引き裂かれる。そしてこの大きな木の空洞に弦を張って、おそらく音が出るであろうこのオブジェに対し、まるで子供がはじめてそれに接するようにできないものか、と。アイディンさんのメソッドを用いたトレーニング、それを楽器を弾く中で試みる、必ずビデオに録画し、そのつどアイディンさんと対話する、という作業が延々と続きます。音楽から離れてゆけばゆくほどに、音楽というフレームが外れてゆけばゆくほどに、「音楽」について、楽器を弾くということについて考えてしまうという、逆説的な状況に立っていました。

身体と楽器の関係に真正面から向き合う作業から、イスタンブールでの初演では、アイディンさんが提案するムーブメントと構成に対し、私はさながら一連のセレモニーを執り行うよう、「演じる」ように楽器に対峙しました。セレモニーの道具としての楽器と執事のようなイメージです。シアトリカルな設定を設けることで、「音楽」や「ダンス」という枠組みを超え、なにものとも呼べない「出来事」として生成されるのでは、という意識がはたらいたのでしょう。もちろん、それらを演じる、ということは、演技者という意識が乏しく、またはダンサーではない私には非常に難しいことでしたが…。

 

イスタンブール公演を終え、日本公演に向け、アイディンさんから、今回は「音楽」から作ってみましょうという提案がありました。イスタンブールでの作業と本番から、身体(あるいはダンス)という言葉と「音楽」という言葉は不可分であるという前提を意識していたので、私にとって「音楽」という言葉が、この場において、もはや何を意味するのかはっきりとは分かりませんでした。これまでの過程で、結果的に「音楽」とははなれたところで「音楽」とも「ダンス」ともよべない何かを求めて来たので、あらためて「音楽」という枠組みをもうけて発想することは難しいように思えました。 

 

しかし、前もって考えすぎず、アイディンさんの来日後、まず私自身による既成のコントラバス独奏曲の中から2つの音楽的素材を選び、身体の動きとの関係を模索しながら作って(こわして)ゆきました。しかし、用意した音楽的素材は、もともと通常楽器を弾く身体を条件に作ったものであり、イスタンブールで、そうではないことの可能性を求めていた私は、実際はやはりとまどいました。とまどった挙句、今回の東京公演は、身体の「作曲家」であるアイディンさんと、音の「振付家」である私との、正面からのコラボレーションであると位置づけ、稽古を続けました。ですからイスタンブールでの作業とくらべれば、コラボレーションとしての対立の場面も随分とありました。

 

アイディンさんは、音楽的素材(メロディー)が、身体(ダンス)的アプローチを加えることにより、どのように素材が解体されてゆくか、解体させてゆくか、という方向性を考えました。私は、解体や創造が一方向のベクトルに進んでゆく、ということに対し、違和感を感じました。イスタンブール公演では決まっている各種の「セレモニー」を次から次へ演じる、という時間演出の方法を援用しましたが、今回は私のなかでは、「ライフ(一生)」つまり、生から死までを演じる、生涯という時間の演出を意識しました。もちろんそれを「感情」的に演じるわけではありませんし、アイディンさんのメソッドはたいへんクリアでオブジェクティブであり、そもそも感情が入り込む余地はありません。また、これらの演出設定は、作業中の会話としてそのような話もしましたが、あくまでも、私の個人的なアプローチとしてです。このように私がシアトリカルな状況を設定するのに対して、アイディンさんは、身体の即物性と、身体の動きから生まれるもっとシンプルな感情を大切にします。たとえばアイディンさんは基本的には多くのムーブメントにおいて「喜びにみちた行為」であることを表したいと考えます。意図的にできることではないのでしょうが、私もそういう「喜び」を意識するのですが、なかなか難しい。またある場面では情念的にみえてしまうのを避けるため、 楽譜のメロディーをパズルのように解体し、身体と音楽の関係を「作業」としての即物性にゆだねるということを試みたり。「こんなファニーなことなのに、どうしてジュンがやると、悲しみの表現になってしまうの?」と何度もいわれました。このプロセスもまた、今後の私自身の課題としても大きく残りました。

 

今回の日本公演に向けて、私の中であえて「音楽家」、「舞踊家(振付家)」というフレームをはっきりさせたところからはじめていたのかもしれません。あえて立場を明確にした上で、舞踊家ではない私が、舞踊を通して身体に向き合うプロセスに忠実でありたいと思ったからです。身体というものを、舞踊家や大きな身体的疾患をもつ人が意識するようには日常的に意識していない私が、自らの身体と意識的に向き合うことが、このプロジェクトで提示しうるなんらかの意義であると思ったからです。現代においてはほとんどショービジネスの中でしか名残をとどめていない踊りと音楽の不可分性、逆に、かつて日本の舞踏の先駆者たちがそうであったように、「踊らない」、「踊れない」身体に「踊り」を求めてゆくようなことも意識しました。私と私の身体と楽器(モノ)との関係を、すっとばしたり、隠蔽したりして、作品としての効果を優先してはいけない、と思いました。具体的にアイディンさんや私自身が、「踊れない」私を逆手に取って、効果的に演出し、そこに新しい可能性をみつけてゆくことも可能なことだったと、思います。私自身、大学などで、いわゆる専門家でない人々、そして専門にすることを特に望んではいない人々や学生に、演劇的なパフォーマンスを教え、ともに作品を作っています。私がかつて関わって来た日本の時々自動やPORTBといった演劇パフォーマンスグループや、ブレヒトの教育劇の方法を援用した演出家との仕事においては、つねに、専門性のないところに現代性のアクチュアリティを探り、私自身の音楽家としての「専門性」をもどかしく感じつつ、その関係性の中や、その曖昧な境界線にこそ、可能性を求めてきました。しかし今回は、あえて「音楽家」であるというフレームを意識、あるいは結果的に意識せざるをえない状況のなかで正直に、正面から取り組む事の意義をつよく感じたのです。

 

この作品においても、作品として形にする「演出法」として、さまざまな見せ方があり、森下スタジオでのポストトークでも話題になったように、たとえば、コラボレーションの方法、コミュニケーションの方法として、音を演出する私と、身体を演出するアイディンさんの立場が逆になることで提示できる可能性はたしかにある、と思います。また、私自身は、例えばメタフィジカルでプロセス的な「言語」の要素を作品にひそませてゆくことで、この試みをさらに明確なものとして提示できるように考えたりもしていました。しかし、先に書いたように、今回の過程では、そこまで早急に「こと」をすすめてはならないのだと感じていました。なにを、どんなコンセプトを「提示」するのか、こういう「試み」の価値はどこにあるのか、私自身も含め、東京では多くの観客は、このように演出的、批評的な視座で観客席で舞台の出来事をみつめている。そういう状況が磨き上げる豊かさもあるのでしょうが、今回はそういう演出的効果は避け、観客にも批評的な眼差しやコンセプトを注視するのではなく、ただただ身体のリアリズムを感じていただけたら、と思いました。なるべくなら「素朴」に、原初的な衝動に忠実に、身体と楽器を晒して舞台の上に立ってみたい。アイディンさんと積み重ねた時間のなかで、普段、演奏するという音楽的営みだけでは経験することが出来なかった、「私」という枠など超えた身体の「ヒューマニティ」をたくさん経験することができたのだから、素朴にそれらを、ぶちまけるのみ…。

 

その現われとしての舞台、その上で演じられる、私と楽器の極私的ともみえる「対話」は、公演後、そこに「開かれた作品」でない閉鎖性や自己陶酔性、あるいは逆に、閉じられているゆえに「他者」が介在できないある種の「神聖」な行為として見えた、という意見もきくことができました。それらは私自身意図的なことではありませんが、貧しい音楽家が、神聖であれ、自己陶酔的であれ、現実問題として、生きる糧としての「楽器」と、ままならない私の身体、そこにかろうじてある音や音楽との関係の中で、そこまで自己に没入ができるはずがありません。ただただ単に、正直に、半分は「こわい(身体や楽器が壊れてしまうことが)」、半分は「なるようになれ! 僕の身体と楽器よ」と投企。そして、パフォーマーとしての私はなんとかそれを「演じる(多分にそれは、ブレヒト的な意味での)」という「理性」と、身体の専門家であるアイディンさんの存在とアイディンさんに対する信頼がよりどころであったのが、現実です。しかしたとえば、そのような接触や対話という意味で、ダンスでいえば、コンタクト・インプロビゼーションという稽古、方法の中では、人の身体と身体(きっと身体と楽器、つまり物体よりは濃密なはずです)のあいだのコミュニケーションをトピックとして、自己と他者の狭間にどのような、恐怖や不可侵性や感情をもちうるのでしょうか。今回の私の場合は、日々触れて、まるで一体化しているように馴染んでいる楽器を、いちど物体としてとらえなおしました。そこには生き物のようなレスポンスは無く、その状況からあらためて私自身との関係をたしかめること。そして、私は本番においてもまだ、そのあいだに関係はつくれずにいた のかもしれません。

 

こういう試みを、イスタンブールでは音楽祭、日本ではパフォーマンスのフェスティバルで公演させていただきました。ほんとうに貴重な経験でした。そしていま公演が終わって思うのは、こういう表現を、例えば、身体がままならなくなってきた高齢の方や、障害のある方、あるいは子供の前で、それから東京やイスタンブールといった大都市ではないところでも演じてみたい。それは、自分がこんなふうに「表現」などといって生活していることが不可能になるほどのフィードバックがあるかもしれませんし、無反応かもしれません。しかしそういう「現実」を前にパフォーマンスをしたら、この試みの意義がより明確に立ち現れるような気もしています。

 

公演後もお客様から、「見る人の立場や、状況によって、これほど見方が変わる公演もないよね」という言葉をいただきました。私自身に対してもこの言葉を肝に銘じて! 私自身だって、どこかで立場 を作ってものを見ているでしょうから。たとえば、「音楽家」であるとか…。公演のプログラムにも書きましたが、振付家(ダンサー)であるアイディンさんの手からこぼれおちた音、音をたてることもなくコントラバスを抱きかかえて弓を宙に描く動きは、ほんとうに美しい音楽だったのですから。

 

日本での公演を終えてしばらくして、コンサートの現場では、公演を見てくれた長い共演歴がある音楽家や舞踊家やお客様から「あの公演の後から、ずいぶん演奏変わったね」などと言われたりもします。また、やはりこの公演に来て下さったある音楽批評家からは、「あのときの公演よりも、きょうのあなたの演奏のほうに、むしろ踊りを感じた」ともいわれたりしました。「db-ll-bass」でのアイディンさんと私の作業は、「身体」と「楽器」の関係そのものを問うものであり、はじめから踊りであろうとも、音楽であろうともしなかったのだから、その見解はおそらく正しく、私としてはそれらの言葉はとても嬉しいものであり、なにより私自身が現在そのような変化を実感しているのです。それは単にフィジカルなことではなく、やはりメンタルな変化が大きいのではないかと自己分析しています。あるいはもっと感覚的なことかもしれません。

 

こうして「音楽家」を名乗っている自分が、生きながらにして、表現しながらにして、楽器を持ちながらにして、演奏しながらにして、音楽というものを手放すギリギリのところで、音楽をみつめることが出来たことを、非常に幸福なことだと思います。そして、ほんとうに「音楽」を手放した時、そこにどんな「音楽」があるのか。私が「私のからだ」を手放した時、そこにどんな「からだ」が、「生命」があるのだろう。

 

この東京、横浜公演を終えて、私は糸操り人形と手操り人形と俳優による舞台公演の音楽を作りました。この4月は、長く音楽を担当させていただいてきた日本舞踊家の急な病死により、故人の意思を引き継ぐ形で、別の洋舞のダンサーが踊った公演の音楽を作りました。音楽は故人のなくなる前日に、故人とのやりとりでつくられた音楽でした。「人とモノ」、「生者と死者」のなかで演奏をした。モノが語り、死者の魂が舞う。その時私は楽器から音を出し、なにかを奏でた、のか? 「この先に」なにがあるのか、いまはまだ分かりませんが、この作品からもうなにかが始まっていることはたしかなことです。 ご来場いただいたみなさま、支えてくださった多くのスタッフの皆様、アイディンさんありがとうございました!

 

                                            (2013年5月記)